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秀吉を不快にさせた筒井順慶の「慎重」さ

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第47回

■「慎重」な順慶と対照的な久秀

 

 順慶が三好三人衆の力を借りて勢力回復を図っている間、久秀は信長と誼を通じて幕臣となります。幕府と信長の後援を受けた久秀によって、順慶は再び筒井城を失いますが、拠点を移動させながら「慎重」に準備を整え、反転攻勢の機会を伺います。

 

 そして義昭(よしあき)と久秀の間に内訌(ないこう)が起きると、立場が逆転し、順慶が幕府側として久秀と対峙していきます。久秀の軍を辰市城(たついちじょう)の戦いで破ると、筒井城の奪還に成功します。

 

 その後、信長包囲網に加わった久秀と、明智光秀を通じて信長に臣従した順慶との戦いは、武田信玄の死によって久秀が降伏し終結します。

 

 その後は順慶が大和国の支配を任され、光秀の与力となり、信長の妹か娘を娶(めと)ったと言われています。再び信長に反旗を翻した久秀を信貴山城の戦いで滅ぼし、大和国の主権争いに終止符を打つことに成功します。

 

 久秀が状況によって立場を入れ替えたのとは対照的に、順慶は「慎重」に行動し、それが信長に評価されているように見受けられます。

 

■本能寺の変で「慎重」過ぎた順慶

 

 順慶は織田政権において、近畿方面司令官である光秀(みつひで)の与力として大和衆を率いる存在となりました。しかし、光秀が本能寺の変で信長を倒したことで、大きな岐路に立たされます。周辺の情勢がはっきり分からない状況で、光秀から助力要請が届きました。

 

 順慶にとって、光秀は織田家臣従の際に取次を受けており、また同じ文化人としても交友関係にあった特別な存在です。そのため順慶は近江に兵を出して協力の姿勢を見せつつも、旗幟を鮮明にする事を避け「慎重」に状況を見極めようとします。

 

 明智軍に協力して河内への出兵を検討しますが、秀吉が中国大返しを敢行している情報を得たのか、急遽、籠城して光秀と対立する方向へ舵を切ります。

 

 結果として山崎の戦いで光秀が敗れたものの、この時の順慶の対応が後に、勝者への便乗を狙った日和見的な武将という悪評が生まれることになります。

 

 実際、順慶の「慎重」すぎる行動に対して秀吉からは強く叱責されています。同様の立場にあった細川藤孝(ほそかわふじたか)がすばやく剃髪し、態度を明らかにしたため、行動が遅いと判断されたのかもしれません。この秀吉の態度により、順慶は体調を崩したという記録が残っています。そして、小牧長久手の戦いに病身を押して無理に参陣したことで、死期を早めてしまったと言われています。

 

■「慎重」な行動にはメリットデメリットがある

 

 順慶はその「慎重」な行動で久秀との戦いを制し、大和国の支配権を奪回しました。しかし、本能寺の変では「慎重」すぎた行動で悪評を生み、秀吉からも叱責されています。

 

 現代でも、市場の動きを「慎重」に見極め過ぎて、好機を逃してしまう例は多々あります。

 

 もし順慶が、秀吉方もしくは光秀方のどちらかでも良いので、即座に旗幟を鮮明にできていれば、日和見的で優柔不断な武将というレッテルは貼られなかったと思います。

 

 順慶は島左近(しまさこん)や松倉重信(まつくらしげのぶ)などの名将を率いて、筒井家を復権させた点からも優秀な武将であった事は間違いないので、現在定着している一般的なイメージが残念なことは否めません。

 

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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